なぜ私たちの教えは世界にとってそれほど重要なのでしょうか。人の命を奪うことについて話しましょう。これは最近の政治的著名人の暗殺、政治家への暗殺未遂、あるいは戦争で失われた多くの命についてです。宗教の歴史を見てみましょう。主要な宗教はすべて、戦争と多くの命の損失を容認してきませんでした。彼らは自らの正義のため、あるいは宗教に反対する者への報復として殺戮を正当化します。自らの信念に反する者を排除すれば神が報いると信じているのかもしれません。
おふでさきは教えています。私たちの肉体も、宇宙のあらゆるものも、神から借りているに過ぎないと。神は万物を所有しておられます。この視点からすれば、他者を傷つけたり命を奪ったりすることは、本質的に神を傷つける行為なのです。「もし自分の命や家族、友人が危険にさらされたら、他人の命を奪うだろうか?」と問う者もいるだろう。答えは「はい」かもしれない。しかし神は、純粋なkokoro (mind)を獲得すれば、自らの魂から喜びのみが現れると教えている。魂に関する神の教えを理解しkokoro (mind)を清めれば、危険に陥る状況は減るはずだ。
また、私たちが他人を傷つけ、嘘をつき、自己中心的な利己心のために他人を利用する際にも、自らの魂は私たちの行動を監視しており、やがて苦しみとして私たちに返ってくるのです。多くの人は、自分の行動が露見しなければ、自分に何の影響も及ばないと考えています。また、死ぬ前に神が自分の行いを許してくれると信じているかもしれません。しかし、自らの魂こそが、その行いによって苦しみをもたらすのです。蒔いた種は必ず刈り取られる。これは揺るぎない真理である。
この世の多くの人々は「なぜ私は苦しむのか」と問うだろう。しかし彼らは、過去の生における自らの行いが自らの苦しみを創り出したことを理解していない。神はこう告げる──本質的に悪なる者は存在しないと。ただ塵(悪しき思考)が彼らのkokoro (mind)に付着しているだけだと。彼らが行動に移すこれらの思考こそが、自覚せぬままに自らの運命を創り出すのだ。世界は自らの魂を理解せねばならない。繰り返すが、我々は蒔いたものを刈り取るのである。
我々の魂に潜むかもしれない負の運命を、どうすれば取り除けるのか?過去に戻って行動を変えることはできないが、今日存在するそれらに関連する思考を消し去ることはできる。だからこそ神は、魂から負の運命が現れた時、自らのkokoro (mind) に潜む否定的な思考を省みよと告げる。運命の使者たる他者を責めるのではなく、同じ否定的な思考に基づいて行動してはならない。こうして私たちは次第に否定的な思考を消し去り、それが引き起こす運命をも取り除いていく。kokoro (mind) が清らかになれば、魂からは健康と喜びのみが現れるのだ。